IT記者会Report

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プロセス革新をめぐる断想(1)

 松尾芭蕉の作といわれる次の俳句:
  「蝶鳥の知らぬ花あり秋の空」
 をどのように理解したらいいのかについては,これまでにさまざまな議論がなされてきた.単純にこの句を叙情的に読めば,美しく晴れた秋空全体を巨大な一輪の青い花として認識した作者の心情を表現したものだという解釈になる.しかし,それでは何かひとつ物足りない.この句が「存疑」(ほんとうに芭蕉が詠んだのかどうかが不明)とカテゴリ分けされているのは,おそらくそのためであろう.

 詩人たちは,コトバという道具を使って作品を創造する.多くの場合,そのさい使われるコトバは,日常のコミュニケーション・ツールと同じものである.詩人たちは,道具としてのコトバに含まれる意味を組み合わせて,自分の感情あるいは何らかの思想を表現し読者に伝達しようと試みる.つまり,作品とは,詩人からのメッセージを載せた媒体として扱われている.世の中のほとんどの詩はそのようなかたちで観賞されている.
 ところが,そうしたメッセージ・ポエムではないジャンルに属する詩も,少数ではあるが存在する.それは,コトバから日常の意味を剥ぎ取ることを意図したもの,すなわちコミュニケーション・ツールではないコトバを創り出すことを狙った作品である.
 井筒俊彦の名著『意識と本質 – 精神的東洋を求めて』(岩波文庫)によれば,われわれの意識は,つねに何かへの意識である.だれかがあるコトバ(たとえば「花」)を口にしたとき,語り手の意識のなかには,そのコトバが指し示す対象の本質がどんなものかについての把握が,たとえそれが漠然とした取りとめのないかたちであっても,すでに存在している.コトバという道具の持つ世界の分節化機能がそうさせるのだ.われわれはそのようにして周囲の世界を分節化し理解する.

 本居宣長の自讃歌:
  敷島のやまと心をひと問はば 朝日に匂ふ山桜さくら花
 は,新渡戸稲造の『武士道』にも引用されたりして,もっぱら国粋主義者たちにもてはやされているが,その一方で,たとえば上田秋成からは,有名な「日の神論争」のなかで「そこまでいうのか,臭い!」と徹底的に批判されたりしている.どちらの立場を支持するにせよ,「花」とは何か,その本質についての共通の意識がなければ論争は成り立たない.  
 しかし,「蝶も鳥も知らない」という形容句がついた芭蕉の「花」は,そうした常識的な花とは何かについての本質認識の範囲を超えたところに位置している.この「花」は,いかなる現実の花でもなく,また非現実の想像上の花でもない.コトバが本来そなえている分節化機能を拒否して,「花」というコトバの新しい定義を目指していると考えたほうがよい.詩という文学ジャンルがほんとうに力を発揮するのは,単なるメッセージ・ポエムの領域をはみだしたあたりにおいてなのである.

 谷川俊太郎の連作『旅』のなかにおさめられたフレーズ:
  さえぎるな
  言葉!
  私と海の間を

 は,世界認識を妨げるコトバの魔力に対しての詩人の激しい抗議の叫びである.
 ソフトウェア開発を論ずるときには「プロセス」というコトバが頻発されるが,そのさい,われわれが無意識のうちに把握しているプロセスの本質は,いわゆるプロセス・モデルというかたちで表現されている.それらのモデルでは,プロセスがいくつかの局面に分解され,さらにそれぞれが複数の活動に細分される.その背景にあるのは同一事象の反復という概念である.それは,過去の開発プロセスにおいて同じことが何度も繰り返されてきたという人びとの経験にもとづく認識だと考えられる.

 しかし,ここにひとつの落とし穴が口を開けている.「同じものものごとが何度も繰り返されることは決してない.ただ差異だけが繰り返されるのだ」というジル・ドゥルーズの指摘がそのことを示している(『差異と反復』上下,河出文庫).
 ウォータフォールにせよ,その後登場したさまざまな改良案にせよ,これまでに提案されたすべてのプロセス・モデルは,単純な反復という思い込みにもとづいており,プロセスというものの本質を正しくはとらえていない.それらは,いわば,マネージャ(蝶)やコンサルタント(鳥)の視点からプロセスを眺めた架空のあるべき姿(Should-be Process)のイメージを描いたものだといえるだろう.いわゆる SPI(プロセス改善)の活動がほとんどの場合中途半端な失敗に終ってしまうこのの原因はそのあたりにあるのではないかと考えられる.
 ほんとうの意味でのプロセスの改善や革新を考えるのであれば,同一事象の反復という概念にもとづく断片的理解ではなく,ただ差異だけが繰り返されるという事実に立脚したプロセスの全体像の把握を心がけなければならない.実際にプロセスを実行しているプログラマの視点に立てば,「蝶鳥の知らぬ花」としてのプロセスのあるがままの姿(As-is Process)がはっきり見えてくるはずなのである.