IT記者会Report

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ウォータフォールはアジャイルなのか?

 わたしに18世紀江戸哲学の魅力を最初に教えてくれたのは,この連載コラムの冒頭に書いたように,子安宣邦さんの『事件としての徂徠学』だった.この本は現在,ちくま学芸文庫に入っているが,わたしが行きずりの書店の棚で偶然に発見し,「事件としての」という奇妙なタイトルに惹かれて手にしたのは、青土社から1990年の春に出版されたハードカバーの単行本だった.
 荻生徂徠の名前は,子供のときから落語や講談で,豆腐のおからばかり食べていた貧乏な学者先生の出世話でよく知っていたし,我が家の近く(三田・寺町の長松寺)にある墓を何度が訪ねたこともあったが,まじめにその著書を読もうという気持ちには、それまでは、なかなかなれなかった.

 毎年暮れになると、これも我が家から高輪の丘を越えたところにある泉岳寺赤穂義士祭があり,この事件の処理にさいして「公」と「私」とを峻別した徂徠の考え方を論じた丸山真男の大著『日本政治思想史研究』が想起されたりはしたが,何分にも自分の専門外の学問分野だったので,手を出すことはためらわれた.
 子安さんの本のページを開いて,わたしが「おや!」と惹きつけられたのは、その序論に引用されていたフランスの哲学者ポール・リクールのことば:「書かれた言説にあっては,筆者の意図とテキストの意味とは合致することをやめる」であった.
 「孔子の道は先王の道なり」というのは徂徠学の中心的なテーゼであるが,徂徠がそのテーゼを提唱した背景に何があったか,その真意はどのあたりにあったのかを探り,徂徠という思想家の内的真実を描き出すというのが一般的な思想史の方法論であるが,子安さんはそうしたアプローチを退けて,徂徠の言説が当時の日本の思想界にどのようなインパクトをもって受け止められたか(あるいは反発を生じさせたか)を外的な「事件として」考察していたのである.

 自分が書いた文章あるいは会議での発言が,もともとの意図とは違った形で受け取られることは、だれもが経験する出来事である.井筒俊彦先生が名著『意識と本質』で指摘されたように,われわれの意識は常に何かへの意識であり,ひとが何かのコトバを発するとき,意識の中にはすでにそのコトバが何を指すかは確定している.同じ単語が使われていても,話し手の意識と聞き手の意識とでは,そのコトバが指示する対象は当然のことながら異なる.したがって,「理解」とは多くの場合「誤解」に他ならない.
 ソフトウェア工学の世界で,そのような誤解が大きな事件性を持って発生したのは,ウィンストン・ロイスが1970年に論文 “Managing the Development of Large Software Systems” で提示した Waterfall Model についてであった.ロイスさんが,完璧な要求仕様を出発点として計画ベースでのプロジェクト・マネジメントを行うというウォータフォール型のモデルを大規模なソフトウェア・システムも開発に適用しようとするとさまざまな難しい問題が生ずるということを丁寧に説明していたにも関わらず,一般には,この論文はウォータフォール・モデルを推奨したものだと受け取られてしまった.
そうした誤解を解こうという試みは,その後何度も行われている.たとえば,1982年にダン・マックラッケンとマイケル・ジャクソンが連名で ACM-SIGSOFT のニュースレターに投稿した小論 “Lifecycle Concept Considered Harmful” は,ダイクストラの GOTO 書簡のタイトルを借りた小気味のよい文章であった.

 2006年に,アメリカで “Waterfall 2006 Conference at Niagara Falls” というエイプリルフールの Joke Site が Web 上で立ち上げられたのに対抗して, ソフトウェア技術者協会 (SEA) では,東京で4月末に「ウォータフォール再考(最高?)」というまじめな討論フォーラムを開催し,落水浩一郎先生 (JAIST) にロイスの原論文を解説していただいた後で,わたしを含めた何人かでパネル討論をおこなった.
 先日,仕事のついでにネット・サーフしていたら,アメリカの若いソフトウェア研究者の Blog ページに,”Why Waterfall was a big misunderstanding from the beginning – reading the original paper” という記事を見つけた.その若者いわく:

 ロイスさんの原論文を読むと,「テスティングをライフサイクルの最後に置くのはよくない」,「概要設計とレビューを最初に2回繰り返せ」,「ユーザを議論に巻き込め」等など,まるで今日のアジャイル伝道師がいっているのと同じことが書いてある.きっとウォータフォールへの誤解は、DODシステム開発の担当にアサインされた管理者がロイス論文の最初の1〜2ページだけを読んで早とちりしたのではないだろうか?

 そういえば,わたし自身も,かつて某国策プロジェクトをめぐる討論で,「そんなウォータフォールもどきの考えはダメでしょう」と指摘したら,大手メインフレーマから来た中年のマネージャに「ウォータフォール? 初めて聞くコトバだけど,カッコイイですね,それいただきましょう」と感心されて困った経験がある(笑).