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上海・紹興 見たまま聞いたまま(4)

 青銅器の展示場は1階の奥。「順路→」に従って右の入口から入ると最初の部屋の正面にド〜ンと大きな壺(高さ60?ほど)が展示されていた。全体の造形といい施された文様といい、完成形といっていい。土器なら轆轤を使って左右均等な器を作ることはできるし、完全に乾くまでの間に箆で文様を付けたり附属の造形を加えることができる。ところがこれは鋳造なのだ。

いきなりド〜ン、次から次の圧巻

 いちど粘土で成形し、そこから砂もしくは砂岩のソトゴ(外子)を作り、さらにナカゴ(中子)を作る。ソトゴとナカゴの間に真っ赤に融けた青銅を流し込む。一発勝負だ。この一品が誕生するまで、いくつの失敗作があったことだろう。紀元前2000年――日本はまだ土器と石器、木器の時代――、すでに中国には金属を抽出し合金を生み出す技術を持つ人々がいた。だけでなく、そうやって作られたたくさんの器を独占した王権があったということだ。
 酒器、杯の造形は、当時からタクラマカンメソポタミアエーゲ海をつなぐルート(後世の「絹の道」)、インドシナ〜インド〜メソポタミアを結ぶルート(後世の「海の道」)が開けていたことを物語る。
 ――これで一杯やったら美味かろうねェ〜。
 岸田氏が相好を崩す。
展示は壺、鼎、爵、酒器、杯、祭器、儀器、武器、楽器、装飾品と多岐にわたっている。部屋ごとに分類され、見学者向けに文様の時代的変遷や利器の分類、青銅器の作り方などが解説されている。
 王宮や貴族の生活利器や儀器は装飾性に富んでいる。夏・殷時代の利器は曲線を多用した入り組んだ抽象的な文様が施されているのに対して、周の時代になると動物の意匠が造形に取り込まれる。代わりに利器腹表部の文様は左右対称となり、さらに直線もしくは幾何学的になっていく。工芸家の工夫や創作意欲もあっただろうし、時代による流行もあった。その背景には美意識の変化があって、それは王権を支えた支配階層の種族の交替によっていたといっていい。
 夏・殷時代の文様は王権を支えた人々が海洋性種族に特有の文身の風習を持っていたからにほかならない。これに対して周から以後の美意識には遊牧の文化が入ってくる。文様が簡素化し、具象的な装飾が付くようになる。青銅に鍍金した装飾品(おそらくベルトのバックル)も登場する。展示されていたのは牛を襲う狼の図柄だった。このような図柄を好むのは遊牧性もしくは狩猟性の種族であって、海洋性種族や農耕性種族の美意識ではない。
 剣や戈、鉾、盾など武器の展示は思いのほか少なかった。戦国春秋の時代にはそれこそ大量の武器が青銅で造られたはずだ。展示が意外に少なかったのは、戦乱血臭のイメージをあまり出したくないからか、展示に足りる美品(宝剣)がないためか、消耗品であるため武器の主力が鉄に変わっていったなかで鋳潰されて鏡や生活利器になったからか。
 ただ、馬王堆古墳のようなケースもある。2100年前に亡くなったはずなのに、まだ肌に弾力を残す遺体で発見されたのだ。同じように1965年のこと、湖北省江陵県望山1号墓から見事な銅剣が出土している。「越王自作」の銘から越王勾践(?〜B.C465)が作らせた8本の宝剣のうちの1本と考えられている。それは2000年の年月を経ても当時の輝きを保っていた。表面を硫化銅の皮膜で覆っていたためだった。中国は奥が深い。いつの日か上海博物館にも「越王自作」銘銅剣に匹敵するような宝剣が展示されることがあるだろう。

中国4千年の歴史と日本

 中国で作られた青銅鏡の裏に、「銅出徐州師出洛陽」〔銅は徐州に出ず、師は洛陽に出ず〕という銘文が鋳造されている。徐州は山東半島の内陸部、春秋時代(B.C771〜B.C431)には「魯」という小国があった。この国の人々は中原を支配した周の人々から「東夷」と呼ばれた周辺異族に区分されていたが、のちに孔子が出たので蔑まれることはなかった。その経済は銅によって支えられていたといっていい。
 ちなみに「魯」国はB.C249年、楚に併合されて史上から消えた。しかし王族(姫氏)は南方に逃れて越国の故地である会稽、現在の紹興市に居を構えた。その名は子孫に姓として受け継がれ、血脈の系譜は不明だが、19〜20世紀にいたって魯作人(文学者)、魯樹人(ペンネーム「魯迅」、小説家)、魯建人(生物学者)、周恩来(政治家)を輩出している。
より硬く、かつ細かな文様を鋳出するには錫を混ぜる。錫の量が少なければ赤銅色(10円硬貨の色)になり、多くしていくと黄金色になる。さらに錫の量を増やすと白銀色の輝きを持つ。日本の遺跡から発見される銅鐸は、実験考古学の知見によると鋳造された直後は黄金に輝いていたという。
で、その錫はどこで採れたかというと、徐州の南方200?にある山だった。現在、その地は錫を採り尽くしたので「無錫」の名で呼ばれ、人口610万人の大都市になっている。春秋時代、呉と楚が無錫の支配権を争った。
 なぜ筆者が青銅器や魯国、会稽に興味を持つかというと、長江下流地域―上海の舟山群島や会稽――の人々が日本列島に水稲耕作を持ち込んできたと考えているためだ。朝鮮半島に産する鉄を競って採ったと記録されているにもかかわらず、日本列島の王権や祭祀者は、のちの古墳時代になっても青銅器を好んでいた。その現場を確認したかったのだ。